石の街に咲いたジェラシー・・・ソウル



※4 金壽根
(キム・スグン)
      (1931〜1986)
韓国の現代建築界において先駆的な役割をなした建築家。レンガと自然素材をよく用い、ダイナミックな空間表現の中にも韓国建築の伝統ともいえるヒューマンスケールを重視したデザインを融合させ、必ずしも機能に捉われない豊かな空間作りを目指した。代表作には「京東教会」の他、「馬山聖堂」、「空間社屋」、「ソウルオリンピックメインスタジアム」などがある。

※5 丹下健三
(たんげけんぞう)
        (1913〜2005)
日本人建築家としていち早く海外でも活動し、世界的にその存在を認められるようになった建築家の一人。第二次世界大戦後の復興期から高度経済成長期にかけてオリンピックや万博など様々な国家レベルのプロジェクトにも加わった。ル・コルビュジェに傾倒し、その弟子の前川国男に師事したこともあり、建物の配置から建築の構造に至るまで、合理的で明快な表現に特徴がある。その合理性は「広島平和記念資料館・平和記念公園」、「香川県庁舎」、「東京カテドラル」、「代々木国立屋内総合競技場(代々木体育館)」などに見ることが出来る。他にも「ハナエ・モリビル」、「東京都庁」、お台場の「フジテレビ本社」など、常に注目される建築の設計に数多く携わった。その門下からは槇文彦、磯崎新、黒川紀彰など世界的に著名な建築家を輩出した。

※6 ル・コルビュジェ

      (1887〜1965)
スイス生まれのフランス人で20世紀を代表する建築家。建築における「モダニズム」の代表格とも言える。シャルル・エトワール・ジャンヌレの名(本名)で美術家としても活動していた。「ドミノシステム」、「近代建築の五原則」によって、それまで中心であった組積造の壁に規制された空間から脱却し、柱と床だけの構造によって自由度の高い空間をつくり出すことを提唱。その概念は「サヴォア邸」で実現された。他に「スイス学生会館」、「ユニテ・ダビタシオン」、「ロンシャンの教会」など、多くの実験的要素を含んだ作品を残し、その作品と思想は、現代の建築家にも多大な影響を与えている。前川国男、坂倉準三、吉阪隆正はその弟子として知られている。


※7 前川国男(まえかわくにお)
       (1905〜1986)
東京帝国大学(現:東京大学)を卒業後、渡仏してル・コルビュジェに師事。後に帰国し、アントニン・レーモンド事務所で働く。生涯を通じ、建築を社会の要請に応えるものにすべく、現実的な問題(制度・技術など)の中で実現可能な建築を模索し続けた。戦後、資材難の時期にはプレファブ住宅の提案も行っている。代表作には、日本初の音楽ホールである「神奈川県立音楽堂」の他、「京都会館」、「東京文化会館」、「紀伊国屋ビル」などがある。
2005.06.26
 「あなたはチュンサンなの?」 涙の女王、チェ・ジウがつぶやく。
「ユジン。君はユジンなのか?」微笑の貴公子、ペ・ヨンジュンが記憶を取り戻す。こう記しているだけでも、ピアノの旋律に乗って、切ないテーマ曲のイントロが頭の中を繰り返しめぐってしまう程、私も去年は冬ソナ≠フ純愛にどっぷりとひたった一人である。
と同時に、このようなドラマが韓国で『作られてしまった』事に、やるせないジェラシーも覚えた。
今後は文化・芸術の交流が二国間の歴史の壁を取り除いていくに違いないと思えたのだが、韓流≠ニいうその一つが日本に渡ってくる10年以上も前の同じ春に、私は全く別のジェラシーをこの国に持ってしまっていた。

 私は、独立したら年に一度は海外に旅をすることに決めたのだが、独立2年目の1993年は、仕事にも、時間にも、そしてお金にも全く余裕がなかった頃で、自分の決意も早二年目で頓挫してしまう程、現実の試練が貧乏建築家に襲い掛かっていた。
せめて、東京でのシンポジウムなどに時々足を運ぶ程度が精一杯になっていた。
あの頃は、そんな時の車窓にも、まだ沢山のれんげ畑が写っていた。自分が置かれた身のいらつきを優しく鎮めてくれたれんげの花は、同時に疲れた体に心地よい眠りも招いてくれた。ふと気がつくと、車窓にあった花はいつの間にか軒を連ねて並ぶ建物へと変わり、駅ごとに人間の固まりが乗り降りを繰り返している。その度に車中に運ばれてくる大都会の温まった空気は余り好きなものではなかったが、しかし、それは同時に、目的を持ってやって来たという自分の気概をあらためて感じさせてくれる貴重な空気でもあった。
 韓国に金壽根(キム・スグン※4)という建築家がいた。金は韓国における丹下健三(※5)だったように思う。
丹下は日本の軍閥がきな臭さを放ち始めた頃に育ち、金はその日本軍の占領下の頃に育つ。
丹下はコルビュジェ(※6)の弟子、前川国男(※7)に学び、金はその前川の弟子、東京芸大の吉村順三(※8)に学ぶ。
そして二人は、年代のずれこそあれ、建築家として国の近代化を一手に担う役となる。その最たるオリンピックの開催は、自国が成長し、大人になった姿を世界に誇る意味において国の威信を二人にかけた。
そして、丹下は代々木屋内競技場で東京の、金はメインスタジアムでソウルの、それぞれの祭典の花を見事に取り持ったところまでそっくりなのである。
ただ、二人にはあまりにも違いすぎた事がある。
丹下は90歳をこえて尚、世紀の建築家の宿命のように、余りある話題を投げ続け天寿を全うした。
そして金は・・・・・

 神の非情であろう。夭逝してしまったその国の星を惜しむシンポジウムは、予想通り会場を人が埋め尽くし、その全員が、核を失った韓国建築界への憂いと、その危機感がもたらすであろう世界的ポストモダン(※9)のスピードへの期待とを同時に併せ持つようなものとなった。
金への鎮魂を胸に会場を去りかけたそのとき、ふと私の眼にとまったポスターがあった。
金の建築を訪ねる旅
それはわずか3日間という日程での、しかも格安のものであった。
この旅なら今年も何とか行ける.....′囃zの神様に救われた貧乏建築家は、いぶかる女房にひたすら頭を下げ、一路足早に成田へ向かったのである。
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