旅を続けるわけ










2005.12.26
 “その建築が、そこに建つ理由を、言葉を使わずに説明できる”
私は、それを本物の建築と想うし、建築家であれば、その様なものを設計せねばなるまいと思う。外形にも内部にも、その理由がきちんと存在するので誰が見ても説明がいらない、その様なものだ。
創り手には大変難しい事なのだが、やはり“本物を追うべき責務”が建築家にはあるのだと信じて私は今日まで来ている。
逆に言えば、何でこの型なの?何でこの内部なの?何でこのデザインや色なの?と1人1人が別々の疑問を感じる様なものは“建築の責務”を果していないと言う事になるので、少なくとも私は、とってつけた様な型や思想で、この世に建築してしまう事を戒めたいと思っている。

 言うまでもないが、建築は、使われる理由があって存在するのだから、勿論、機能やデザインもその為に存在しなければならない。
にもかかわらず、その建築を学ぶ学生にとって、外国の建築学は哲学に重点を置くのに対し、日本の建築学は工学の一部として籍を置かれている事を、私は残念に思っている。
何故なら、建つべき理由から学ぶものと、機能や構造から学ぶものとでは、出来上がったものに、おのずと違いが出るからだ。その結果を言えば、前者は人々を納得させ、感動すら与えるから当然時間に耐えて残されていく。逆に後者は、人々に感動までは与えないし、流行時間に耐えられるものでもないので当然消えていく。
 アメリカの建築家、フィリップ・ジョンソン(※雑考誌・・・序ー3参照)が哲学者でもあり“建築家は建築に選ばれなければならない”と言ったのは、多分、そこにあるべき“建築と建築家の責務”を言った名言に違いないと私は思っている。
私は何も外国にかぶれているのではない。誰でも試験の為の勉強をして、誰でも建築士の資格を得れば誰でも建築の設計を許されるという日本の余りにも短絡的なシステムから生まれる建築に虚しさを覚えて久しいだけなのである。
イギリスでは近い将来、建築家の国家試験を止め、建築家として手を上げた人間に全ての責任を委ねる。という事は、人々が真の建築家のみを選んで行くのだ。建築家の資格とは元々昔からそういう厳しいものであった。残念ながらあの国はいつになっても100年進んでいる。

 勿論、日本に素晴らしい建築がないなどと言っているのではない。
素晴らしくない建築の余りの多さを見過ごしている日本人の感覚からは、建築家も育つまいと思っているだけだ。
この事は“地震国と木の文化”が与える“せつな”が大きな原因であると言われてきた。
有史以来、地震で倒れ、火事で燃える歴史を繰り返してくれば、確かにそれもあると思う。
しかし、現代において、地震で倒れ、火事で燃えるものを“せつな”だと言って片付けられる人が多いなどと、誰が言えるだろうか。もう建築に、長持ちしないと言う意味での“せつな”は禁句なのではあるまいか。


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