“どう残れるか”それを建築に求めて何ら不都合はあるまいと思う。それが本当の不動産だからだ。
残れるものには理由がある。人が残そうとする理由があるのだ。
 洋の東西を問わず昔の宗教力や権力の落とし子としての名建築が多い事は知っている。
そこには何世紀にも渡って、残される理由がいくらでもある。
では、宗教力や権力が随分薄らいだ現代は、名建築が生まれにくいのだろうか。
しかし“人間の祈りが日々集約する宗教力”と“人間の富と財が莫大に集約する権力”とを期待出来ないからこそ、その外側に人の英知を発揮させる場所があると私は思っている。それこそを“建築家の責務”と言ってもいいし、それを“現代”と呼べる様な気がしている。

 歴史的名建築の中にも、この場所でないと意味が無いものと、そうでないものとが並存する。
私は、この場所にこそ意味がある建築を目指して、先人達が考え、創造したその発想をさぐる為に旅に出ている。
その場所とその建築の意味を感じたいからだ。それには現地に立つほかはないのである。
そこから単に機能やデザインが面白いと言って持ち帰ったところで、与えられた場所が欲求する形式にはなるまい。
何故ここにこれを創ろうとしたのか、その発想こそがあらゆる有用なものとして持ち帰れるのではあるまいか。
 現代はもう様式などを超えた場所の意味する哲学こそが深く問われていると思っている。
旅先で、この事を教えてくれる建築と逢えた時、私は型や空間の奥にある発想の源を感じ、その尊大さに敬服して“建築家の責務”を持ち帰ることにしている。
 
日本も最小単位の住宅という人の“棲まい”から“建築家の責務”は試されていると思いつつ、私は旅先へ向う。

 建築が工学であり、試験の為の暗記をして、建ったものにも人々は無関心でいる。日本だけが“建築は芸術の母”ではない国となってしまう前に“建築家の責務”はより大きいと思うこの頃だ。

 「橋本さんはよくお出かけの様ですね」と言われるのだが、一言で答えれば、「本物の建築を教えて欲しいからなんです」・・・・・。
でなければ、たった一度の人生を建築家にかけた意味がないではないか。


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