~ 第1節 沁感譚 … 序 ~

  ゛人間50年 下天の内を比ぶれば 夢まぼろしの如くなり
  ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか ... ゛

 敦盛を舞うや、『 者ども我に続け!!』と孤塁の雄叫びを放って,
桶狭間に疾走した信長。
今日までの命を重ねて生きた、戦国時代の ゛人生50年 ゛...。
信長が本能寺の灰塵と消えたとき、確か49歳だったように思う。
時代が違うといえばそうなのだが、太平の時代に生きる ゛人生80年 ゛の中で、
今日、私はその49歳を迎えた。

 私には好きな言葉がある。
郷里の文豪 山本有三(※ 1)の余りにも有名な言葉だ。
 ゛たった一人しかない自分を たった一度しかない一生を
  本当に生かさなかったら 人間生まれてきたかいが ないじゃないか ゛

建築家を志して、なお更この言葉が身にしみるようになった。
たった一度の人生だから、きっと誰にでも、建築家になる権利はある。
権利はあるのだが、ではその資格が自分にあるかとなれば、たった一度の
人生でも、事はそう簡単ではないのだ。

 まだ黒の詰め襟服の頃、フランク・ロイド・ライト(※ 2)を知ってから、
この資格が自分に有りや無しやと、ずっと問うて来たように思う。
 35歳のとき、独立を機にライトが設計した建物を見てまわった。
まさに建築の神様が、ライトという人間に宿り、人類に感動を贈ってくれたと
想えて仕方がなかった。
 それ以来、私は ゛そこに感動があるか? ゛という想いを、いつでもどこでも、
私の人生の、すべてのフィルターにする事にした。
人間だけが得ることのできる ゛感動 ゛という特性こそが,生きていることの
価値を教えてくれるのではないかとさえ、想うようになった。
自分がより多くの ゛感動 ゛を受けられるならば、自分の人生は豊かであろう。
自分が建築を通して、より多くの ゛感動 ゛をもしや与えられるのであれば,
建築家としての存在を、許されるであろう。 そう考えるようになった。
 
 随分前になるが、東京でのフィリップ・ジョンソン(※ 3)の講演会は、
超満員の聴衆の中、『 建築家は、建築に選ばれなければならない 』という
言葉で閉幕した。

 帰路、車窓に流れる風景の向こう側に、その言葉の意味をずっと考え続けて
いた。
建築家になる権利ではなくて、建築家になれる資格とは何か...。

 私にとってその資格とは、゛感動 ゛の量をどれだけ自分が持ち合わせて
いるのかということのようだ。
建築家は、その持ち合わせを常に私に試し続けてくることだろう。


  49歳の今日、改めて今後の自分の、その資格を見つめていこうと決めた。



※1 山本有三(やまもとゆうぞう)
1887(明治20年)~1974(昭和49年)。
現在の栃木市出身の作家・劇作家で、逆境に耐えて成長する人間をよく描いた。小説「路傍の石」、戯曲「米百俵」などがよく知られている。戦後は、日本国憲法の口語化や当用漢字の制定、文化財保護法など文化政策の推進に大きな功績を残した。



※2  フランク・ロイド・ライト
   (1867~1959)
米国が生んだ、20世紀を代表する建築家。「カウフマン邸(落水荘)」、「グッゲンハイム美術館」の他、日本国内にも「旧帝国ホテル」、「山邑邸(ヨドコウ迎賓館)」などの名作を残す。およそ一人の業績とは考えられないほどの膨大な設計業績の中、一貫して「人間の生活の豊かさとは何か」、「人間性の保障に寄与する建築とは何か」を追求し続けた。



※3  フィリップ・ジョンソン
    (1906~2005)
米国の建築家。ハーバード大学で哲学を学んだあと、世界中を旅して建築に関する見識を深めた。後に、ニューヨーク近代美術館(MoMA)建築部門ディレクターに就任。同館最初の建築展「モダン・アーキテクチャー」を開催し、当時古典主義様式が主流だった米国建築界に一石を投じた。37歳で建築家として活動開始。代表作に「グラスハウス」、「AT&Tビル(現ソニープラザ)」がある。後者は特に、建築における『ポストモダン』を代表する作品として知られている。