~ 第12節 コーヒーブレイク・4     
          … 私の秋景色 ~


 名月の秋、読書の秋、紅葉の秋、秋の夜長...、何をして過ごすにも
秋はとても気持ちのいい季節だ。
 ところで秋の心と書いて愁(うれい)...か...。
冬という寒さ厳しく、どうしても塞ぎがちな季節に向かう前に想い返す一年や
人生、そして自然の移ろいに人恋しくもなり、人は哀愁を覚えたりもする...
そんな秋。
 日本人を形作ったともいえる四季の中で、とりわけ秋が我々に与えた影響は
大きいような気がする。
 宗教心もさほど強くない民族が" 良心 "を守っていられるのは、この秋が
あるからではあるまいか...。
 
 それだけ繊細な季節なのだろう。

 しかし...、私にとって秋は〝 食欲の秋 〟なのだ。
サンマやアユを筆頭に魚が旨い。
香り松茸、味しめじ、チタケそばなら何杯でもいける。
梨、栗、いちじく、ぶどう、柿と果物にも言う事はない。
それぞれの味覚が、秋そのものを感じさせてくれる。
私は秋の食べ物が大好きだ...と記せば、よほど胃の強そうな人間に
聞こえるかも知れないのだが...。


 今は、どの病院に行っても診察の前に、まず問診票なるものを
記入する事が多い。

 「 橋本さ~ん...2番にお入り下さ~い 」
 『 よろしくお願いします 』

丸い回転イスに座って、しばし静かに医者を見る。
私の問診票を見ていた医者は、必ずこの項目" 今までにした病気は? "のところで、
私の顔を覗きながら、異口同音に必ずこう言うのが決まりだ。

 「 うん? 橋本さん...何ですかこれは?...5歳で?... 」


今から45年も前のことになる。

 私の家の裏手には大きな竹やぶがあって、そのせいだろう、秋になっても
結構やぶ蚊が飛んでいた。
古い農家の隙間だらけの家には、晩秋まで、渦巻きの蚊取り線香が欠かせなかったし、
日中でも薄暗い寝床(ねどこ・寝室)には、緑色の大きな蚊帳(かや)が吊られていた。
 
 そんな秋の蚊帳の中で、5歳の私は吐血した。
口を両手で押さえても、寝間着という和服の中に、べっとりと生ぬるい血が
流れこんで来た。
 町医者の見立ては" 胃かいよう "だった。
そしてこんな子供は初めてだと言っていた。

 農家の秋は忙しい。
父も母も、早朝から地下足袋を履き、また裸足にもなって駆け回っていた。
日中は、陽の当たる明るい畳の上に布団が敷かれ、私はそこに寝かされた。
夕方には寝床に入って、蚊帳越しに低い天井板の木目の数を毎日数えていた。
 一日中、横になったままの私の枕元には、ブリキの洗面器が置かれ、毎日毎日
そこに吐血を繰り返した。
吐血と言っても鮮血ではなく、苦い胃液の混じった赤黒い液体だった。
日中、洗面器の1/3くらいまで決まってその異物が溜まる。
それを解っていたかのように母が処理に戻ってくる。

 《 今日は少ないネ...良かったネ 》

母は毎日同じことを言ったが、私の目に写る赤黒い液体の量に違いは無かったように思う。
それでも母の一言が嬉しくてならなかった。
母はそれだけを言うと、私の口を拭いて、綺麗に洗った洗面器を私の枕元に置き、
また田んぼに走っていった。
私は寝返りをして、母の背中を眼で追った。

 学校に入る前だから、何をやるでもない遊ぶだけの子供だったのだが、
稲刈りの終わった田んぼから、遊び仲間の元気な声が聞こえてくるたびに、
一緒に遊べないもどかしさよりも、やがてもうそこには存在しなくなる
自分の姿を想像して怖がったりしていた。
一度、Yちゃんが私の家を覗き込んで、様子を見に入ってきてくれたのだが、
例の赤黒い液体を見るや、目を丸くして走って行ってしまった。
 私は子供なりに絶望を味わった。

 町医者が往診に来てくれては、これも決まって
 「 大丈夫だョ 」と言いながら頭をなでて、薬を置いていったのだが、
私は医者と親のひそひそ話を聞き漏らすまいと、耳をそば立てていた。

 少量の粉薬を毎日一度飲むことだけが、私の日課だった。
あっという間に痩せ衰えた私は、自力では歩けなくなっていた。
父が夕方、野良仕事から一旦もどり、私を抱き上げて寝床へ運ぶのだが、
ある日から父はこう言い続けた。

 《 伸...死ぬんなら死んじゃえ...父ちゃんはそれでもいいぞ... 》

今思えば胃かいようなのだから、安静にして食べ物にさえ注意すれば、
時間こそかかれ、治らぬ病ではないというのに父は、やっと生まれた農家の
長男坊の、余りに頼りない姿を凝視できなかったのかも知れない。
まだ、田舎の農家に生まれた長男の人生は、すでに決められていた時代なのだった。

 吐血は10日間くらい続いただろうか。
薬が効いてからは、おもゆ、おかゆを少しづつ口に流し込む。
そんなある日、薄い塩味だけの米の生臭さがいよいよ鼻について、
おかゆを残してうつむいている私に、間髪入れず父の鉄拳が飛んできた。

 私は1か月くらいで歩けるようになったのだが、この食生活はその後も
随分続いたように思う。
おかげで私は今でも、鍋の後汁に入れて食べる" おじや "などは
食べられないでいる。
茶漬けをたまに食べられるようになったのも、やっと最近になってからの事だ。

 今まで胃カメラは5回飲んでいるから、胃が強いとは決して言えないし、
事業主であれば胃が痛くなることなど、しょっちゅうある。
だがすべて、大人になってからのことである。



 秋...刈り入れの終わった田んぼを見るたびに、蚊帳の中に横になる
痩せ細った子供が浮かんでくる。
その子供は寝床の高窓に写る竹の影と、天井板の模様を、今でもはっきりと
覚えている。
しかし、どうして5歳のその子が自分なのか、今でも良く解らない。
だから問診票と私をチラ見する医者の疑問に、

 『 私の人生は5歳がデリケートのピークでした。』と、答えるようにしている。

 今年も、梨や栗が食卓に出るが早いか、私は私に似てしまった我が子たちと、
先を争って秋の味を口に運んでいる。