~ 第16節 小さなお地蔵さんへの願い    
             … 神戸・1 ~

 
震災を受けた港町神戸の表玄関、メリケン波止場の護岸は復旧の最中だった。

 アスファルトやロッキングブロックが、上下左右に波打ったまま、崩れながら
海の中に潜り込んでいく様は、建築家でなくとも異様な不安と驚愕を覚える。
対岸の観光エリアであったハーバーランドの方が、わずかだが復旧が早い。
とは言っても鋼矢板といって、長い鉄板を海に直角に突き立てただけのもので、
本格的な復旧には至っていない。
 夕方になって倒壊をまぬがれたポートタワーに明かりがつく。
ひと気の無いランドマークの真っ赤な光は、港の淋しさを増すばかりであった。


三宮駅から西へ歩く。

 センター街から元町商店街へ。
ここは神戸の繁華街で、震災前には両側に並んだセンスのある店舗が、
行きかう人々を優しく見ていた通りだが、道にも建物にも亀裂が入り、看板も
落ちたままにシャッターを下ろした店ばかりだ。
 楽しく買い物をする気分ではないのだろう。
人々は、空を覗かせてしまったアーケードの下を、
地味な服装で足早に通り過ぎるだけだった。
 全国に流行っていく神戸ファッションの発祥地が休業を続ければ、
若者に与える影響は計り知れない。


三宮高架通りを神戸駅に向かう。

 湊川神社の長い塀が倒れたまま放置されている。生田神社もそうだが、
総じて神社というものの復旧には、氏子の問題もあり時間がかかるのだろう...。
それでなくとも、神社の被害はこの上なく痛々しい。
 神戸駅に着く。沿線では一番レトロな駅で、この街の歴史を感じさせてくれる。
シートに覆われて改修中だったが、このオシャレな駅のステンドグラスが、
せめてもの気丈な美しさに感じられた。


多聞通りを西へ。

 中間階を潰された映像が、余りにもショッキングだった神戸西市民病院は、
すでに解体され、更地になっていた。
建物と言うのは、1階さえしっかりしていれば、中間階に一番歪が出る事に
なっている。
中間階を押しつぶされた病院は、その事を人の命と引き換えに人々に伝えた。
 病院には特別室と言う値段の高い部屋があり、大概最上階に用意されている。
その理由はそんな建物の宿命を、理不尽にも人の値段に代えたものである。
潰れた階にこそ沢山の患者や家族がいたはずである。
悲痛な叫びが響いていたであろう大病院を想像し、建築を創る自分が何とも
罪深く、いたたまれなくなった。
 地震に潰れない建築...人は建築に守られないでどうする...。
更地にするために掘り起こされた地面に向かい、私はそうつぶやいていた。

 近くの小学校の校庭に、ブルーシートやキャンプテントが建ち並んでいる。
何をする訳ではない私は、そこに住まう人々を後ろめたく、フェンス越しに
遠巻きに見る事しか出来なかった。
仮設住宅が足りないという現実の為に、校庭が存在するわけではない。
それは学校の機能も同時に奪われ続けていくという意味だ。
人が生きる事の方が、教育よりも先なのだというこの国の遥か昔の姿にさえ、
こんな悲惨さはなかった筈である。


 炎に包まれた菅原商店街。

 無残に残った鉄骨のアーケードの中に、ポツリ、ポツリとプレファブが
建っていた。
しかし、活気のあった売り口上は聞こえてこない。
ここを知る生活者にとって、その売り口上の復活こそ待ち望まれるものに
違いない。
 この辺りから長田地区、鷹取地区と" 焼土 "と化した場所が続く。
大火が生き物のようにJRを乗り越えて、延焼していった映像が蘇ってくる。
下請けの小さな家内工場が多い所だった。
都市再開発がかかっていた為か、殆どが解体後の地盤のみを呈しているだけで、
あちこちにまだお線香があがり、新しいお地蔵さんが沢山ある。
今回の震災で、生ける人も死ぬる人も、一番苦しんだ地区と言っていい。
 なのに私は、その炎と共にあったであろう地獄絵を、どうしても
想像できなかった。
あの神戸市役所で出会ったお婆ちゃん(感考誌 12)なら、生々しく容易に
できることが...。
真っ黒な灰を塗りたくった様なコンクリートの建物がポツンと残っている。
思考が失せた私には、もう大きな墓標にしか見えなかった。


 イギリスでは150年ぶりの震度3という地震に話題が持ちきりになった。
この現実の差は、不平等という理屈でどう考えたところで埋まるものではない。
東海、中南海、南海地区に巨大地震が明日にでも来る。
確実に来る。
これだけは絶対に来る。
 私は目の前の小さなお地蔵さんに向きあい、両手を合わせて祈った。
いや、強く願った。
 『 人間の知恵をしぼり、時間とお金を費やせば復興は出来ます。
  しかし、その復興は貴方たちの無念さを繰り返す為の復興であっては
  断じてなりません。
  どうか傍観者だった建築家に、本当の英知を教えて下さい 』

わずか4日間...。
泊まるところにも窮した震災の街...。
あれから10年...、私は毎年神戸の街を訪ね歩いている。
彷徨うように歩いた同じ場所で、お地蔵さんに願った同じ場所で、
本当の笑顔の意味をかみしめた人たちとすれ違いながら、だからこそ
建築家の責務を考え、追い続けている。