~ 第2節 お隣へのジェラシー …ソウル・1 ~

  『あなたはチュンサンなの?』  涙の女王、チェ・ジウがつぶやく。
 『ユジン?、君はユジンなのか?』 微笑みの貴公子、ぺ・ヨンジュンが
記憶を取り戻す。

こう記しているだけでも、ピアノの旋律に乗って、切ないテーマ曲のイントロが
頭の中を繰り返しめぐってしまう程、私も去年は ゛冬ソナ ゛の純愛に、
どっぷりとひたった一人である。
と同時に、このようなドラマが〝 韓国で作られてしまった 〟ことに、何とも
やるせないジェラシーを覚えた。
 今後は文化・芸術の交流が、二国間の歴史の壁を取り除いていくに違いないと
思えたのだが、〝 韓流 〟というその一つが日本に渡ってくる10年以上も前の
同じ春に、私は全く別のジェラシーをこの国に持ってしまっていたのである。


 私は独立したら、年に一度は海外に旅をすることに決めたのだが、
独立2年目の1993年は、仕事にも時間にも、そしてお金にも全く余裕が
なかった頃で、自分の決意も早2年目にしてとん挫してしまう程、現実の
試練が貧乏建築家に襲い掛かっていた。
せめて東京でのシンポジウムなどに、時々足を運ぶ程度が精一杯だった。

 あの頃はそんな時の車窓にも、まだ沢山のれんげ畑が写っていた。
自分が置かれた身のいらつきを、優しく鎮めてくれたれんげの花は、同時に
疲れた体に心地よい眠りも招いてくれた。
目が覚めると、車窓にあった花は、いつのまにか軒を連ねて並ぶ建物へと変わり、
停車駅ごとに人間の固まりが乗り降りを繰り返している。
そのたびに、車中に運ばれてくる大都会の温まった空気は、余り好きなものでは
なかったが、しかしそれは同時に、目的を持ってやって来たという、自分の
気概をあらためて感じさせてくれる貴重な空気でもあった。

 韓国に金 壽根(キム・スグン ※ 1)という建築家がいた。
金は韓国における丹下健三(※ 2)だったように思う。
丹下は、日本の軍閥がきな臭さを放ち始めた頃に育ち、金はその日本軍の
韓国占領下の頃に育つ。
丹下はコルビュジェ(※ 3)の弟子、前川国男(※ 4)に学び、金はその前川の
弟子、東京芸大の吉村順三(※ 5)に学ぶ。
そして二人は、年代のずれこそあれ、建築家として国の近代化を一手に担う役と
なる。
その最たるオリンピックの開催は、自国が成長し、大人になった姿を世界に誇る
意味において、両国の威信をそれぞれの建築家に賭けたのである。
つまり丹下は代々木屋内競技場で東京の、金はメインスタジアムでソウルの、
それぞれの祭典の華を、見事に取り持ったところまでそっくりなのである。

 ただ、二人には余りにも違いすぎたことが一つある。
丹下は90歳をこえて尚、世紀の建築家の宿命のように、余りある話題を投げ
続け、天寿を全うした。
しかし金は...。

 神の非情であろう。
夭逝してしまったその国の星を惜しむシンポジウムは、予想通り会場を人が
埋め尽くし、その全員が、核を失った韓国建築界への憂いと、その危機感が
もたらすであろう世界的ポストモダン(※ 6)のスピードへの期待とを、同時に
併せ持つようなものとなった。

 金への鎮魂を胸に、会場を去りかけたそのとき、ふと私の目にとまった
ポスターがあった。
 『 金 の建築を訪ねる旅 』
それは3日間という短い日程の、しかも格安のものであった。

 ゛この旅なら、今年もなんとか行ける... ゛
建築の神様に救われた貧乏建築家は、いぶかる女房にひたすら頭を下げ、
一路,足早に成田へ向かったのである。

 ツアー参加者の簡単な顔合わせをして驚いた。
高名な建築家や、憧れの建築写真家にまじり、映画の字幕スーパーで
よく知られる、翻訳家の戸田奈津子さんも参加しているではないか...。
 機内で隣り合わせたこの翻訳家は、時間を惜しみ、英語の原稿を手に、
ひたすら日本語に変える作業をしていた。
戸田さんが一息ついたところを見計らい、

 『 ご多用そうですね...。翻訳にはどんなご苦労がおありですか?。 』と、
尋ねてみた。

 「 私、映画が大好きなので、翻訳が嫌になったことはないけれど、
  会話を的確に短く表現しないといけないでしょう...。2、3秒が勝負ね。
  その間に読めないといけない。
  それと、日本人には少ない" ユーモア "を、どういう言葉で伝えるか...、
  この辺かしらねぇ。 」と、戸田さんは機内ジュースを一口含んだ。
  
 『 なぜ、このツアーに参加されたのですか?。』と、重ねて尋ねた。すると、

 「 あぁ、私ね、色んな事を何でも知っていたいの。金 壽根ってすごい人
  だったんでしょう?。 」と、逆に質問を受けてしまったのである。

そこで、先に記した様なことを仔細に説明した他に、彼の事務所は劇場を持ち、
若手演劇家の活動に充てたり、ギャラリーや会員制のコーヒーハウスもあり、
特に韓国唯一の芸術雑誌の発行所にもなっていること、しかもそれらは、
金の私財を投げうって作られていることなどを告げた。
私の話を黙って聞いていた戸田さんは、

 「 ゛建築は芸術の母 ゛って本当ね。それを実践した本当の建築家なのね。
 長生きしてほしかった人ね...。」そう言って、視線を落としながら
一つため息をつき、手元の原稿をぼんやりと見つめていた。そして、

 「ごめんなさい、これを機内でやってしまわないと...。」と、
申し訳なさそうに微笑んだメガネの奥には、超一流のプロフェッショナルに
共通する、解脱をしたような清んだ瞳があった。

 その頃の金浦(キンポ)空港は、まだどこか古めかしいアジアの一空港に
過ぎなかったが、チャーターされたバスの中から、ハングル文字にあふれ返る
看板を見ただけで、余りに近くて遠い異国を感じる。
 ときにおよそ30年前の東京も、オリンピック工事の真っ只中だったが、
ソウルも五輪から5年がたったとはいえ、いたる所で土木・建築工事の粉塵を
上げている。
 
 その石やレンガで出来た建物に、色鮮やかな原色の窓やドアがはまっている
様子は、明らかに大陸的であったし、屋根に木材を使っているとはいえ、
街の空気全体に、乾いた印象を強く持ったのは、単に工事中のそれとは違う、
大地の呼吸のせいでもあろうと思えた。

 大通りに面し、横付けされたバスの前に、金の代表作の一つ、京東(キョン・
ドン)教会が現れた。
新興の改新教派のもので、何角形と言ったらよいか、大きな柱状岩の様な形を
呈して、赤黒いレンガ張りの外観は、強烈に荒削りな彫刻の様でもあった。
 

京東教会 外観

バスを降り、建物に沿って渦巻き状の広い外階段を上がっていくと、いきなり
屋上空間が用意されている。
ぐるっと見渡すと、大きな花の中にいるような感じになり、
その沢山の花びらが空を変形に切り取る。
 教会の中で敬虔な祈りを終えた人々が、空だけが見えるこの空間に立ち、
何を想うのだろうか...。
 


  京東教会 屋上ホール

 教会とは ゛祈り゛という一種 ゛緊張した空間 ゛の事に違いないのだが、
この建築家は、人間のまた別の時間の側面も建物の中に組み入れた点で、
懐の深い神の業を同時に表現したのだろうか。
 外部の喧騒を遮断する役目も兼ねた、花びらの中から見える雲の流れは、
無言ではあるけれど、飽きることのない映画の様でもあった。

 私は戸田さんに声をかけた。
 『 この空に翻訳はなくてもいいですね...。』

彼女は黙ってうなずくと、
 「 貴方のお仕事はいいわねぇ。」とつぶやいた。どうしてですかと尋ねると、
 「 言葉のいらない世界は凄いじゃないの。貴方も決して饒舌な建物は
 設計しないでね...。」
 
 そう言ったきり空を眺めていた翻訳家は、私が去ってもずっとそこから
動こうとはしなかった。                  
   

戸田さんと
戸田奈津子さんと
  
 日本を代表する翻訳家を無言にさせた、お隣の偉大な建築家に、
私はその時から応分もわきまえず、果てないジェラシーを覚えたのである。


※1  金壽根(キム・スグン)
   (1931~1986)
韓国の現代建築界において先駆的な役割をなした建築家。レンガと自然素材をよく用い、ダイナミックな空間表現の中にも韓国建築の伝統ともいえるヒューマンスケールを重視したデザインを融合させ、必ずしも機能に捉われない豊かな空間作りを目指した。代表作には「京東教会」の他、「馬山聖堂」、「空間社屋」、「ソウルオリンピックメインスタジアム」などがある。


※2  丹下健三(たんげけんぞう)
   (1913~2005)
日本人建築家としていち早く海外でも活動し、世界的にその存在を認められるようになった建築家の一人。第二次世界大戦後の復興期から高度経済成長期にかけてオリンピックや万博など様々な国家レベルのプロジェクトにも加わった。ル・コルビュジェに傾倒し、その弟子の前川国男に師事したこともあり、建物の配置から建築の構造に至るまで、合理的で明快な表現に特徴がある。その合理性は「広島平和記念資料館・平和記念公園」、「香川県庁舎」、「東京カテドラル」、「代々木国立屋内総合競技場(代々木体育館)」などに見ることが出来る。他にも「ハナエ・モリビル」、「東京都庁」、お台場の「フジテレビ本社」など、常に注目される建築の設計に数多く携わった。その門下からは槇文彦、磯崎新、黒川紀彰など世界的に著名な建築家を輩出した。


※3  ル・コルビュジェ
   (1887~1965)
スイス生まれのフランス人で20世紀を代表する建築家。建築における「モダニズム」の代表格とも言える。シャルル・エトワール・ジャンヌレの名(本名)で美術家としても活動していた。「ドミノシステム」、「近代建築の五原則」によって、それまで中心であった組積造の壁に規制された空間から脱却し、柱と床だけの構造によって自由度の高い空間をつくり出すことを提唱。その概念は「サヴォア邸」で実現された。他に「スイス学生会館」、「ユニテ・ダビタシオン」、「ロンシャンの教会」など、多くの実験的要素を含んだ作品を残し、その作品と思想は、現代の建築家にも多大な影響を与えている。前川国男、坂倉準三、吉阪隆正はその弟子として知られている。


※4  前川国男(まえかわくにお)
    (1905~1986)
東京帝国大学(現:東京大学)を卒業後、渡仏してル・コルビュジェに師事。後に帰国し、アントニン・レーモンド事務所で働く。生涯を通じ、建築を社会の要請に応えるものにすべく、現実的な問題(制度・技術など)の中で実現可能な建築を模索し続けた。戦後、資材難の時期にはプレファブ住宅の提案も行っている。代表作には、日本初の音楽ホールである「神奈川県立音楽堂」の他、「京都会館」、「東京文化会館」、「紀伊国屋ビル」などがある。


※ 5 吉村順三(よしむらじゅんぞう)    (1908~1997)
東京美術学校(のちの東京藝術大学)で建築を学ぶ。この頃、毎週京都に通い、寺社の実測を行っていたという逸話をもつ。卒業後はアントニン・レーモンド事務所で働き(一時渡米)、独立後は設計活動の傍ら、東京藝術大学で教鞭をとった。代表作に「南台町の家」、「軽井沢の山荘」、「NCRビル(現:日本財団ビル)」、「奈良国立博物館」、「八ヶ岳音楽堂」などがある。建築における重要な要素として、設備・家具・照明などの細部に至るまで設計したことで知られている。


※6  ポストモダン
1960年代半ばのフランスを中心に興った、建築・文学・哲学・思想など、各種文化・芸術分野における一連の運動。19世紀末から20世紀初頭にかけて興ったそれまでの伝統的な様式に捉われない、合理性と機能性を追及した「モダニズム」への反動であると考えられている。建築においては、装飾を廃し、禁欲的な四角い箱を目指す「モダニズム」の建築に対し、装飾性、折衷性、過剰性を特徴とする建築を指し示す意味で用いられる言葉である場合が多い。実際、多くの建築家によって様々な試みがなされたが、とりわけ1980年代に入ってからは、古代ギリシャ・ローマなどの歴史的建造物から、その装飾デザインを引用した外観に特徴のある建築が数多く生み出された。「AT&Tビル(設計:フィリップ・ジョンソン)」、「つくばセンタービル(設計:磯崎新)」、「東京都庁舎(設計:丹下健三)」などはその代表格とされる。合理性や機能性を追求したが故に、都市や建築を味気ないものにしてしまったという「モダニズム」の建築への批判から生じたものではあったが、一方で外観の奇異性やその特殊性ゆえに、かえって都市の景観を乱しているとされた事例も少なくはなかった。やがて、この「外観の奇異性」という一側面のみがクローズアップされ、建築における「ポストモダン」は「デザインの消費」、「建築家のお遊び」といったマイナスイメージを内包する言葉として語られるようになっていく。この狭義の「ポストモダン」はのちに、文字通りの「モダニズムの建築にとって代わり得る建築」としての議論とは切り離され、徐々に廃れていった。