~ 第22節 旅を続けるわけ~


 " その建築が そこに建つ理由を 言葉を使わずに 説明できる "

 私は、そのようなものを本物の建築と思う。
そして建築家であれば、そのようなものを設計せねばなるまいと思う。

 建築の外形にも内部にも、その理由がきちんと存在するので、
誰が見ても説明などいらない...、 その様なものだ。

 創り手には大変難しい事なのだが、やはり〝 本物を追うべき責務 〟が
建築家にはあるのだと信じて、私は今日まで来ている。逆に言えば、
なんでこの形なの?。
なんでこの内部なの?。
なんでこのデザインや色なの?。と、
その建築に居る一人ひとりが、別々の疑問を感じてしまうようなものは、
〝 建築の責務 〟を果たしていないと言うことになるので、
少なくとも私はとってつけたような形や思想で、この世に建築してしまう事を
戒める事にしている。

言うまでもないが、建築は使われる理由があって存在するのだから、
勿論、機能やデザインもその為に存在しなければならない。
にもかかわらず、その建築を学ぶ学生にとって、外国の建築学は哲学に重点を
置くのに対し、日本の建築学は工学の一部として籍を置かれている事を、
私は残念に思っている。
何故なら、建つべき理由から学ぶものと、機能や構造から学ぶものとでは、出来
上がったものに、おのずと違いが出るからだ。
その結果を言えば、前者は人々を納得させ、美しさに感動すら与えるから、
当然時間に耐えて残されて行く。
そして後者は人々に感動までは与えないし、本質として流れる長い時間に
耐えられるものでもないので、当然消えて行く。

 アメリカの建築家、フィリップ・ジョンソン(雑考誌...序 参照)が、
哲学者でもあり、「 建築家は建築に選ばれなければならない 」と言ったのは、
多分そこにあるべき〝 建築と建築家の責務 〟を言った名言に違いないと
私は思っている。

 私はなにも外国にかぶれているのではない。
誰でも試験の為の試験勉強をして、誰でも工学試験に受かりさえすれば、
誰でも建築士になれるし、誰でもどんな建築の設計すら許される。
そんな日本の余りにも短絡的なシステムから生まれる建築に、虚しさを覚えて
久しいだけなのである。
ちなみにこの程度のことで設計が許される国は、先進国の中で
日本だけなのである。

 そんな日本の感覚では、どうにも太刀打ちできない未来国家がある。

 イギリスでは近い将来、建築家の国家試験を止め、建築家として手を挙げた
人間にすべての責任を委ねる。そこに起こり得る全ての責任を...だ。
ということは、依頼する人々の側が、真の建築家のみを選んで行くのだ。
そのふるいに残った人だけが、建築家の称号を許される。
もれれば当然建築家は名乗れない。いや建築家として認めてもらえないのだ。
建築家の資格とは、ペーパー試験ではない。
人々が与えるにふさわしい資格なのだ。
工学だけの、一夜付けの知識の人間に、誰が仕事を依頼するだろう。
 建築家の資格とは元々の昔から、そういう厳しいものであった。
 
 残念だ...、まったくもって悔しいけれど、あの国はいつになっても100年進んでいる。


 私は、日本に素晴らしい建築がないなどと、言っているのではない。
素晴らしくない建築の、余りの多さを見過ごせる日本人の感覚からは、
本物の建築家も育つまいと思っているだけだ。
 このことは、有史以来〝 地震国と木の文化 〟が与える〝 刹那主義 〟が
大きな原因であると言われてきた。
昔から地震で倒れ、火事で灰になる歴史を繰り返してくれば、確かにそれも
無関係ではあるまい。
しかし現代において、その状況を〝 刹那 〟だと言って、
片付けられる人が多いなどと、誰が言えるだろうか。
もう建築に、長持ちしないという意味での〝 刹那 〟は,
すでに禁句なのではあるまいか。
〝 どう残れるか 〟
現代はそれを、建築に求めて何ら不都合はあるまいと思う。
何故なら、それが本当の不動産だからだ。
 残れるものには理由がある。
人が残そうとする理由があるのだ。

 洋の東西を問わず、昔の宗教力や権力の落とし子としての名建築が
多いことは周知の事実である。
そこには何世紀にも渡って、残された理由がいくらでもある。
 では、宗教力や権力が随分薄らいだ現代は、名建築が生まれにくいのだろうか。
いや、そうではあるまい。
〝 人間の祈りが日々集約する宗教力 〟と,
〝 人間の富と財が莫大に集約する権力 〟とを期待出来ないからこそ、
その外側に人の英知を発揮させる場所があると私は思っている。
 それこそを〝 建築家の責務 〟と言ってもいいし、それを試される今を
まさに〝 建築家の資格 〟と言うのではなかろうか。
だから何度でも言いたい...、感動という朽ちない芸術文化を建築に求めるなら、
ペーパーテストをやっている暇はないのである。


 歴史的名建築の中にも、この場所でないと意味がないものと、そうでないものとが並存する。
 私はこの場所にこそ意味がある建築を目指して、先人たちが考え、
創造したその発想を探る旅に出ている。
その場所と、その建築の意味を感じたいからだ。
それにはどこであろうと、現地に立つ他はないのである。

 そこから単に機能やデザインが面白いと言って持ち帰ったところで、
与えられた場所が要求する形式にはなるまい。
何故ここにこれを創ろうとしたのか、その発想こそが
あらゆる有用なものとして持ち帰れるのではあるまいか。

 現代はもう様式などを超えた、場所の意味する哲学こそが、
建築に深く問われていると私は信じながら、設計に挑戦している。

 旅先で、このことを教えてくれる建築と逢えた時、
私は形や空間の奥にある発想の源を感じ、その尊大さに敬服して、
〝 建築家の責務 〟を持ち帰る事にしている。

 日本も最小単位の住宅という、人の" 棲まい "から〝 建築家の責務〟は
試されていると思いつつ、私は旅先へ向かう。

 日本だけが,〝 建築は芸術の母 〟という認識から外れたまま、
建てられた物に厳しい眼を持たない国にならない為にも、
〝 建築家の責務 〟は、より大きいと思うこの頃だ。

 「橋本さんは良くお出かけのようですね... 」と言われるのだが,
一言で答えれば、

 『 本物の建築を教えてほしいからなんです 』

 でなければ、たった一度の人生を建築家に賭けた意味がないではないか...。