~ 第3節 続 お隣へのジェラシー
              …ソウル・2 ~


金 壽根(キム・スグン ※ 1)の事務所は、空間社(コンガンシャ)と言い、
S・G・C( スペース・グループ オブ・コリア)と呼ばれている。
この地下に劇場があり、着が早いかツアーの歓迎会を催してくれた。

 ステージだけに照明が集まる。
4人の若者が、韓国の伝統的衣装に身を包み、それぞれが持つ4つの打楽器を
ひたすら打ち続ける。
奏でる韓国音楽は劇場に満ち溢れ、ジャズの様でもあるし、乱打する様から
放たれる激しい音のリズムは、サンバの様でもあった。
奥深い祈りなのか、溢れるままに伝えたい希望の表現なのか、4つの音は、
オーケストラに勝るかの様に、私の心を鷲掴みにした。

 「 いかがでしたか、皆様...。」

 たしかこのツアーには見かけない日本人女性が言った。

 「金は、韓国と日本を同じように愛しておりましたが、あらゆる韓国の伝統を
 守ることに主人は力を注ぎました。今まで多くの日本の友達が、主人を訪ねて
来て下さいましたが、今日、私は、日本に生きる皆様とお会いできることを
 心待ちにしておりました。」

 ...そうか、この人が金と共に海を渡り、韓国の人となった道子夫人か...。
そういえば、前編に記した丹下(※ 2)も金も、一所員として修業していた頃に、
生涯の伴侶と邂逅した。
そして、ついでに言うが、共に夫人は大変な美人なのである。

  そんな夫人が続ける。
 「 ささ、中庭でウエルカム焼肉パーティを始めましょう。そして、何の
 遠慮もなく、金の事務所を見て行って下さいね...。 」

 私は、利発さを兼備する美しきこの女性に見とれていたが、
゛ それではお言葉に甘えて... ゛と、早速事務所の中に潜り込んだのだった。

 地下1階、地上5階のS・G・Cは、わざと幅の狭い階段や、低い天井が
用意されていて、その為に他の広さや高さを、逆に演出させる空間になっている。
スキップフロアーの連なる空間は、どこにいても人間の気配を感じられる
気持ちの良いものであった。

 金の真骨頂は ゛非生産的な第三の空間 ゛と呼ばれる、機能以外に意味を
持たせようとした空間の存在にある。
そんな中にたたずんでいると、所員さんだろう女の子が、コーヒーを差し出し
ながら、

 「 焼肉パーティへは行かないのですか?。」と、流暢な日本語で話しかけて
きた。

 『 日本語お上手ですね。』と、私は驚きをもって反応した。

 「 韓国の大学は、第一外国語は英語ですが、第二は日本語なんですよ。
 所長と話をなさいますか?。」 言われるままに彼女の後をついて行く。

設計部は、すでにオールCAD化されており、所員たちは忙しくマウスを
動かしている。
 若い所長だった。いや、全員が若いのである。
勿論、この若者たちは、金というカリスマ性を持った芸術家に学ぶことを
選んだのであるが、師なきあと、どんな想いで仕事をしているのか、
率直に知りたかった。

 『 金 壽根 以外の建築家に興味はありますか?。』と、所長に聞いてみた。
即座に返ってきた答えは、私にとって意外なものだった。
 
 「 槙 文彦(※ 3)さんは大好きです。」

 なるほど、韓国もすでにボーダーレスの時代にあり、ポストモダンの情報が、
世界を同時に巡っている事をあらためて感じた。
所長はS・G・Cの雑誌や、オリジナルのメモ用紙、おまけに韓国の配筋図
まで、プレゼントしてくれたのだった。

 『 いい記念になりました。 』と礼を言うと、背後から声がした。

 振り向くと美しき夫人が微笑んでいる。
金が逝った後、この総合芸術の場を一人で切り盛りしている元日本人女性の
苦労がいかばかりか、私などに想い及ぶ筈はないのだが、その時の私は、
あろうことかどこかで哀れんだ表情をしていたのかも知れない。
そんな私に、

 「 私には、金の意思が重くのしかかっておりますが、私は日本人ですから
 弱音を吐かないのです。」

 道子夫人は潤いに輝く瞳で笑いながらそう言うと、くるりと振り返るなり
仕事中の所員に、ハングル語で矢継ぎ早に指示を出した。
身振りと共に熱のこもった口調を聞いた所員は、安堵したように仕事を続けた。


 金の生涯に ゛志半ば ゛という言葉を使えば使えるのかも知れない。
しかし、こんなにも凛と立つ美しき日本人女性が、その後を支えているでは
ないか。
ここに、私の金に対する果てないジェラシーは、より確実なものになったの
だった。

 私にとってのソウルは、何の余裕も持ちえなかった若きあの頃にこそ、
訪れるに相応しい場所だったと、今も思っている。訪れるに相応しい場所だったと、
今も思っている。

夫人と



※1  金壽根(キム・スグン)
   (1931~1986)
韓国の現代建築界において先駆的な役割をなした建築家。レンガと自然素材をよく用い、ダイナミックな空間表現の中にも韓国建築の伝統ともいえるヒューマンスケールを重視したデザインを融合させ、必ずしも機能に捉われない豊かな空間作りを目指した。代表作には「京東教会」の他、「馬山聖堂」、「空間社屋」、「ソウルオリンピックメインスタジアム」などがある。



※2  丹下健三(たんげけんぞう)
   (1913~2005)
日本人建築家としていち早く海外でも活動し、世界的にその存在を認められるようになった建築家の一人。第二次世界大戦後の復興期から高度経済成長期にかけてオリンピックや万博など様々な国家レベルのプロジェクトにも加わった。ル・コルビュジェに傾倒し、その弟子の前川国男に師事したこともあり、建物の配置から建築の構造に至るまで、合理的で明快な表現に特徴がある。その合理性は「広島平和記念資料館・平和記念公園」、「香川県庁舎」、「東京カテドラル」、「代々木国立屋内総合競技場(代々木体育館)」などに見ることが出来る。他にも「ハナエ・モリビル」、「東京都庁」、お台場の「フジテレビ本社」など、常に注目される建築の設計に数多く携わった。その門下からは槇文彦、磯崎新、黒川紀彰など世界的に著名な建築家を輩出した。



※3  槇文彦(まきふみひこ)
   (1928~)
現代の日本を代表する国際的建築家。建築を環境の一要素として捉え、建築がその土地においてどのような表情を持ち、どのような風景を構築すべきかを考慮した上で、人間が直接触れる細部に渡るまでデザインを行うことを身上とする。その代表作である「代官山ヒルサイドテラス」では、隣接する緑多き屋敷地を借景としつつ、道に沿って集合住宅、店舗、広場を継起し、混沌とした東京の居住環境に対してデザインを通じた居住の提案を行っている。この他に「京都近代美術館」、「幕張メッセ」、「東京都体育館」、「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」がある。